6年生 沖縄学習旅行 2日目
2日目 南部戦跡 学徒隊のたどった道を追体験
午前中は、1組と2組に分かれて、学徒隊のたどった跡を追体験しながら学習しました。
沖縄戦は、首里の司令部を守るための攻防が激しく続きましたが、やがて南部へ撤退します。学徒隊は軍と行動を共にしました。この南部撤退以降、学徒隊や住民にたくさんの犠牲者が出ました。
1組 ずいせん学徒隊 宮城巳知子さんのコース
1組はずいせん隊の宮城巳知子さんがたどったコースを、宮城千恵先生、前田先生とまわり学習しました。
戦争が始まったため2年間しか学べなかった沖縄県立首里高等女学校跡で楽しかった頃の学校生活の話を聞きました。
1945年3月、18歳で野戦病院に入隊します。卒業式も壕の中で行われました。4月1日に米軍が上陸すると、戦争はだんだん激しくなり、日本兵、沖縄住民で組織された防衛隊にたくさんの負傷者が出ました。なんの訓練もうけていませんでしたが、必死に看護活動を続けました。
戦争にまきこまれての日々を過ごした壕、ナゲーラ壕(手掘りの壕)、識名の壕(自然の壕)に行きました。今はどちらも入ることができません。傷口からウジが落ちてきたり、亡くなってしまった死体を爆弾の隙間をぬってガマから外に出す仕事までしたのだそうです。
南部に追われた宮城さん達は、様々な壕を逃げ回りました。その一つ米須壕に行きました。
虫が多くジメジメしていました。「こわい」と子ども達は言いましたが、当時の宮城さんにとっては、外の砲弾の嵐に比べたら「天国だった」ということでした。
ずいせん隊の方々をまつってあるずいせんの塔の前で、平和パネルを供え黙祷。そしてみんなでエイサーを踊りました。
2組 ひめゆり学徒隊 宮城喜久子さんのコース
2組ははじめに南風原陸軍病院壕跡に行きました。78年前にここで起こっていたことを想像しながら聞きました。
食事は、1日ピンポン玉2個にまでなっていたなんて信じられませんでした。
飯あげ体験もしました。当時はぬかるみ道で、いつ銃弾が飛んでくるかわからない中、約14kgのたるを担いでご飯を運んでいたと知って、命がけだった事がわかりました。
続いて第一外科壕跡に行きました。
米軍に陸からも海からも追いつめられた宮城喜久子さんが最後にたどり着いた荒崎海岸にも行きました。一緒だった学友がなくなってしまったと聞き、どんな気持ちだったろうと想像しながら海を見ました。
亡くなってしまった方たちのご冥福をお祈りしてエイサーを踊りました。
1組も2組も糸数壕に入りました。そこで、ひめゆり学徒の方たちが負傷した兵隊さんにどういう看護をしていたのかなど、実際に入って話を聞きました。ライトを消すと何も見えなくなり、目の前の自分の手も見えませんでした。
ひめゆり平和祈念資料館で
1組、2組それぞれのコースから合流しました。
平和祈念公園・平和の礎で
平和の礎には、沖縄戦で亡くなった方の名前が刻まれています。宮森630会の稲福 晃さんからご家族の名前が刻まれている話を伺いました。
内間青年会の方とのエイサー交流会
夕食後、内間青年会の方たちとの文化交流をしました。内間青年会の方たちからは、創作エイサーの踊り、内間青年会のエイサーを披露していただけました。大太鼓の迫力にびっくりしましたが、すごくかっこよかったです。小さい子もエイサーを踊っていて可愛かったです。
交流最後は、カチャーシーで盛り上がりました。
(2日目の様子 おわり )