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6年生 沖縄学習旅行 4日目

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 4日目 うるま市立宮森小学校へ 今日は、いよいよ最終日です。 1959 年に起きた宮森小学校ジェット機墜落について学んだり、宮森小の 6 年生との交流も楽しみです。 3 泊 4 日お世話になったホテルの方たちに挨拶をしてホテルをあとにしました。 宮森小学校に着きました。 はじめに 1959 年、宮森小ジェット機墜落事故の犠牲になってしまった人たちの慰霊碑仲よし地蔵に平和パネルを捧げ、黙祷しました。 私たちのために早朝から宮森小の体育館を貸してくださいました。石川宮森 630 会の方も朝早くから私たちを待っていてくださいました。 体育館では、突然襲ってきたジェット機墜落事故について、 630 会事務局長の伊波洋正さんから話を聞かせていただきました。 伊波さんは、当時 1 年生でした。突然ドンという音がして、続いて子どもたちの叫び声が聞こえたのですが、何が起きたか、はじめわからなかったそうです。 教室に担任の先生が来て、学校にジェット機が落ちたから、早く帰りなさいと言われ学校を出ました。帰る途中、手押し車に乗せられ病院に運ばれる子どもたちを見ていたそうです。 伊波さんは、一人の少女の事に強く胸を打たれたと話してくださいました。病院に運ばれた少女が駆けつけたお母さんに「兄ちゃんは?」と尋ねていた事を知った時、罪もなく、こんなに優しい子がなぜとの思いが大きくなり、絶対に忘れてはいけないと、伝えて続けている事を話してくださいました。 自分たちと同じ 6 年生 3 名含め 18 名の子どもが亡くなってしまった事、校舎がめちゃくちゃになってしまった事を知って悲しくなりました。宮森小で起きた事を忘れてはいけないと思いました。 平和の礎でお話くださった稲福さんからは、 当時事故に遭い、後遺症のため、のちに亡くなった同級生の話、 仲よし地蔵の由来などを教えていただきました。 宮森小の 6 年生との交流の時間になりました。 宮森小の人たちが、私たちの迎え入れ準備をしてくれていました。 挨拶が終わると、両校の出し物交流です。 私たちは、大森み神楽を披露しました。宮森小からは、石川市に伝わるエイサーを見せてくれました。踊りはもちろん、三線や唄まで自分たちでやれていてすごいなと思いました。 体育館での交流が終わると、私たちにとっては、はじめ体験する人が多い給食

6年生 沖縄学習旅行 3日目

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  3日目 渡嘉敷島に渡る日 学習旅行は 3 日目になりました。大きく体調を崩す人もなく、元気です。 朝ごはんをたくさん食べて、今日の活動に備えます。 天候に恵まれ、渡嘉敷島に渡れることになりました。午前中は、集団死についてしっかり学び考えます。午後は、海遊びです。 朝の集会で、今日一日について確認してフェリー乗り場へ出発です。 高速船に乗って渡嘉敷島に行きました。 西展望台で 渡嘉敷島に着いてすぐに西展望台に行き、慶良間の島々を見ました。 ここでは、米田英明さんから渡嘉敷島で起きた事を教えていただきました。 当時千人あまりの住民が住んでいた島に日本軍の兵隊千人あまりが来たそうです。そのため、住民の家に兵隊も一緒に住む事になりました。家の中では、軍隊の話ばかりになり、戦争が近づくと小学校6年生も軍の手伝いをさせられたと聞きました。ついに米軍の軍艦がやってきました。あまりの数に当時、軍艦を渡って島から島へ行けそうと思えるくらいだったと話してくれました。 阿波連の住民が一ヶ所に集められたそうで、それは自決しろという事でした。集まってくる人の中には、晴れ着を着ている人や新しいランドセルや靴を履いている子どももいて、死んだおじい、おばあとどんな話をしようかなと話しながら歩いている子もいたそうです。 「集団自決跡地」の碑の前で 当時 6 歳でその強制集団死の場を体験した吉川先生から、お話を伺いました。 黙祷をし、吉川先生が体験されたその場で実際に起きたことを話して頂きました。 6 歳だった吉川先生はお姉さんにおんぶされて行ったそうです。 50 から 60 名位の人が集まっていて、村長さんや役場の人の「天皇陛下万歳」の声に続き、手榴弾の音が響きました。吉川先生の家族の手榴弾は不発だったため、その隙にお母さんの「みんな立ちなさい。逃げるよ」の声でその場から逃げ、助かりました。が、しばらくはなかなか語り合えなかったそうですし、 2 歳上のお姉さんは心の深い傷になって、この期間のことを覚えていないそうです。 語りたくはないことをこうやって語るのは、今の時代状況をみるとまた同じことが起きるのでは ? という不安があるからと話されました。“未来の平和をつくる” 次の世代の私たちに思いを託されました。 特攻艇秘匿壕の跡地で 吉川嘉勝さんから特攻艇秘匿壕の話を聞きました。爆弾を積

6年生 沖縄学習旅行 2日目

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  2日目 南部戦跡 学徒隊のたどった道を追体験 午前中は、1組と2組に分かれて、学徒隊のたどった跡を追体験しながら学習しました。 沖縄戦は、首里の司令部を守るための攻防が激しく続きましたが、やがて南部へ撤退します。学徒隊は軍と行動を共にしました。この南部撤退以降、学徒隊や住民にたくさんの犠牲者が出ました。 1組 ずいせん学徒隊 宮城巳知子さんのコース 1組はずいせん隊の宮城巳知子さんがたどったコースを、宮城千恵先生、前田先生とまわり学習しました。 戦争が始まったため2年間しか学べなかった沖縄県立首里高等女学校跡で楽しかった頃の学校生活の話を聞きました。 1945年3月、 18歳で 野戦病院に入隊します。卒業式も壕の中で行われました。4月1日に米軍が上陸すると、戦争 はだんだん激しくなり、日本兵、沖縄住民で組織された防衛隊にたくさんの負傷者が出ました。なんの訓練もうけていませんでしたが、必死に看護活動を続けました。 戦争にまきこまれての日々を過ごした壕、ナゲーラ壕(手掘りの壕)、識名の壕(自然の壕)に行きました。今はどちらも入ることができません。傷口からウジが落ちてきたり、亡くなってしまった死体を爆弾の隙間をぬってガマから外に出す仕事までしたのだそうです。 南部に追われた宮城さん達は、様々な壕を逃げ回りました。その一つ米須壕に行きました。 虫が多くジメジメしていました。「こわい」と子ども達は言いましたが、当時の宮城さんにとっては、外の砲弾の嵐に比べたら「天国だった」ということでした。 ずいせん隊の方々をまつってあるずいせんの塔の前で、平和パネルを供え黙祷。そしてみんなでエイサーを踊りました。 2組 ひめゆり学徒隊 宮城喜久子さんのコース 2 組ははじめに南風原陸軍病院壕跡に行きました。 78 年前にここで起こっていたことを想像しながら聞きました。 食事は、 1 日ピンポン玉 2 個にまでなっていたなんて信じられませんでした。 飯あげ体験もしました。当時はぬかるみ道で、いつ銃弾が飛んでくるかわからない中、約14kgのたるを担いでご飯を運んでいたと知って、命がけだった事がわかりました。 続いて第一外科壕跡に行きました。 外科と言うけれど、治療はほとんどできないで、昼はじっと隠れ、夜食べ物を探し回っていたことを知りました。 米軍に陸からも海からも追いつめられた宮城喜久